この曲が好きな理由は、正直とても単純だ。 自分の車が青い車で、インスタにその写真を載せるとき、 いつも頭の中でこの曲が流れているから。
深い意味があったわけでもない。 名曲だと語りたいわけでもない。 ただ、「この曲、合うな」と思った。それだけだった。
でも、何度も使っているうちに、 ふと考えるようになった。 なぜ、この曲は「青い車」なんだろう、と。
生活の中に、いつの間にか入り込んでいた曲
スピッツの曲は、 「よし、聴こう」と構えて向き合う音楽ではない。 移動中や作業中、何気ない時間に溶け込んで、 気づけばそばにある。
スピッツの音楽には、 主張しすぎないのに、なぜか残る距離感がある。
「青い車」も同じだった。 最初はメロディと空気感だけ。 歌詞を深く追っていたわけでもない。 それでも、車の写真と一緒にこの曲を思い出す回数が増えるにつれ、 いつの間にか”自分の日常のBGM”になっていた。
A
なぜ「青い車」なのか
あらためて考えると、「青い車」という言葉はとても地味だ。 象徴的でもなければ、ドラマチックでもない。 現実に、どこにでもありそうな存在だ。
でも、だからこそリアルなのだと思う。
青という色は、 情熱的でも、絶望的でもない。 少し冷えていて、少し距離があって、 でも空や海につながっている色だ。
感情の温度が低めのまま、 どこかへ続いていく感じ。
そして車。 車は、目的地がなくても走れてしまう乗り物だ。 歩くより速く、でも飛ぶほどではない。 ただ「進んでいる状態」を続けるための道具。
「青い車」とは、 答えも覚悟も決まっていないまま、 それでも前に進んでいる姿なのだと思う。
「輪廻の果てへ飛び降りよう」という言葉が残す影
1994年のアルバム「空の飛び方」に収録されたこの曲には、「輪廻の果てまで」という印象的なフレーズがある。
この言葉だけを切り取ると、 死の歌、心中の歌、破滅的な愛―― そんなイメージを持つ人もいる。
けれど、「青い車」という曲全体の温度を考えると、 その解釈には少し違和感がある。
この曲は、 激情に向かわない。 破滅に突っ込まない。 覚悟を固めきらない。
ただ、走っている。
死の歌ではなく、終われなかった感情の歌
「輪廻」とは本来、 生と死が繰り返される循環を意味する言葉だ。 終わりではなく、続いてしまうこと。
「輪廻の果てまで」という表現も、 命を終わらせる決意というより、 何度繰り返しても断ち切れない感情を示しているように思える。
忘れたつもりでも、ふとした瞬間に思い出す。 もう終わったはずなのに、気配だけが残る。 前に進んでいるのに、完全には切れていない。
死を選ぶほど強くはない。 でも、きっぱり手放せるほど軽くもない。
その中間にいる人間の感情。
この曲が描いているのは、 そんな”終われなかった想い”なのではないだろうか。
A
「前へ進め」と言わない優しさ
「青い車」は、背中を強く押してこない。 それでも、立ち止まれとも言わない。
ただ、 迷いながら走っている時間そのものを否定しない。
人生でも同じだ。 目的地がはっきりしない時期もある。 自分の速度が遅く感じることもある。 それでも、車は走っている。
この曲は、 そんな状態を「それでいい」と静かに認めてくれる。
好きな理由は単純でいい
インスタに載せる車の写真は、 特別な場所じゃないことが多い。 映える景色でもない。 ただ、いつもの道、いつもの時間。
それでも、この曲が似合う。 それだけで十分だと思えてくる。
好きな理由は単純でいい。 生活に合う曲は、強い。
スピッツの「青い車」は、 いつの間にか、自分の人生の風景と結びついていた。 青い車は、今日もどこかを走っている。

