「怪物」という言葉に、優しさを感じたことがあるだろうか。
正直に言えば、私はなかった。
だから鈴木雅之の「怪物」を初めて聴いたとき、拍子抜けしたのを覚えている。
怖くもない。攻撃的でもない。
むしろこの曲は、弱さや後悔、どうしようもない感情を抱えた“人間そのもの”を描いているように聴こえた。
タイトルと音楽、そのギャップこそが、この曲の核心なのではないか──
そんな違和感から、この歌をあらためて言葉で追いかけてみたくなった。
鈴木雅之「怪物」の意味を深読みする
これはラブソングなのか?“怪物”の正体とは
「怪物」というタイトルを見て、
これをラブソングだと思う人は、正直あまりいないだろう。
けれど 鈴木雅之 が歌う「怪物」は、
派手な愛の言葉も、わかりやすい情熱もないのに、
なぜか聴き終えたあと、心に静かに残る不思議な曲だ。
この曲で描かれている“怪物”とは何なのか。
そして「怪物」は、本当にラブソングではないのか。
この記事では、
タイトルの意味、歌詞の背景、そしてこの曲が大人の心に残る理由を、
言葉の温度を確かめながら読み解いていく。
A
鈴木雅之「怪物」はラブソングなのか?
結論から言うと、
「怪物」は王道のラブソングではない。
ただし、
「愛を描いていない曲」でもない。
この曲には、
・愛している
・会いたい
・離れたくない
といった直接的な言葉はほとんど出てこない。
その代わりに描かれているのは、
**恋をしてしまった人間の“内側”**だ。
誰かを想うことで生まれる、
喜びと同時に現れる不安、怖さ、制御できない感情。
それが、この曲の正体だ。
A
タイトルが「怪物」である理由
この曲の最大のポイントは、
“怪物”という言葉を、何か恐ろしい存在として描いていないところにある。
ここでの怪物とは、
-
恋に落ちたことで膨らんでいく感情
-
理性では止められなくなる想い
-
自分でも扱いきれなくなる「好き」という気持ち
そうしたものの比喩だ。
誰かを本気で想ったとき、
人は少し不格好になる。
冷静でいられなくなる。
強くなったつもりでも、実は弱くなる。
その状態を、
この曲は「怪物」と呼んでいるように感じる。
怪物=悪ではない。
怪物=人間らしさなのだ。
A
なぜYOASOBI版と印象が違うのか
「怪物」と聞くと、
YOASOBIの楽曲を思い浮かべる人も多いだろう。
YOASOBI版の「怪物」が、
社会や他者との関係の中で生まれる“外向きの怪物”だとしたら、
鈴木雅之の「怪物」は、
自分の内側で静かに息づく怪物を描いている。
叫ばない。
抗わない。
ただ、そこにある感情を見つめている。
この違いが、
同じタイトルでもまったく別の余韻を生んでいる。
A
派手じゃないのに心に残る理由
この曲を初めて聴いたとき、
正直「わかりやすい曲だ」とは思わなかった。
盛り上がるサビもない。
感情を煽る展開もない。
それでも、
何度か聴くうちに、
ふとした瞬間に思い出す。
それはきっと、
この曲が“感情の説明”ではなく、
感情の状態そのものを描いているからだ。
若い頃なら、
物足りなく感じたかもしれない。
けれど、
誰かを想い、失い、守りたかった経験を重ねた今だからこそ、
この静けさが胸に沁みる。
A
まとめ:二つの「怪物」が映し出す、人間の真実
「怪物」という同じタイトルを持ちながら、
この曲は歌い手によって、まったく違う景色を見せてくれる。
YOASOBIの「怪物」は、
守るために怪物になる覚悟を描いた“物語の歌”だ。
善悪や選択がはっきりした世界の中で、
自らの意思で怪物になる強さが描かれている。
一方、鈴木雅之が歌う「怪物」は違う。
そこにあるのは覚悟でも戦いでもない。
気づけば抱え込んでしまった感情、
制御できなくなった弱さ、
それでも生きてきた“人生そのもの”だ。
この曲に登場する怪物は、
倒すべき敵ではない。
排除すべき存在でもない。
それは、誰の中にもいる、
どう扱っていいかわからない感情の塊だ。
だからこの歌は叫ばない。
爆発もしない。
静かに、低く、胸の奥に沈んでいく。
年齢を重ねるほどに、この曲が沁みる理由もそこにある。
若い頃のように、すべてを選び直すことはできない。
取り消せない後悔も、修正できない感情も抱えたまま、
人は生きていく。
鈴木雅之の「怪物」は、
そんな人生の地点に立った人間に、
「それでもいい」と静かに寄り添ってくれる歌だ。
怪物にならない人間はいない。
大切なのは、それを否定せず、
抱えたまま生きていくことなのかもしれない。
A


