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浜田省吾『サンシャインクリスマスソング』の意味とは?『ミッドナイト・フライト』から『サンシャイン・クリスマス・ソング』へ

ラブソング

1984年、クリスマスイブの記憶

1984年のクリスマスイブ。彼女に去られた僕は、行き先も分からずハンドルを握り、クリスマスの光から逃げるように暗い郊外へと車を走らせていた。




カセットデッキから流れる『ミッドナイト・フライト』のイントロ。あのピアノの旋律が心臓を針で刺すように響く。あの時の僕にとって、クリスマスは「世界で一番惨めな男」であることを証明する残酷なイベントでしかなかった。

もしタイムマシンがあるのなら。冷えた車内で孤独に震えていた20代の僕の隣に座り、何も言わずに『サンシャイン・クリスマス・ソング』を聴かせてあげたい。2015年、浜田省吾が届けてくれたこの曲は、あの夜の闇を突き抜ける眩しい「陽光」そのものだったから。

『ミッドナイト・フライト』が描いた闇

孤独に寄り添う深夜の音楽

『ミッドナイト・フライト』は、1980年代の浜田省吾を象徴する楽曲のひとつだ。深夜、都会の闇の中を走る車。行き場のない想い。誰かを失った喪失感。

この曲は、幸せなクリスマスを祝う人々の影で、一人きりで夜を走る者たちの存在を描いた。イントロのピアノが奏でる旋律は、まるで暗闇の中で一筋の光を探すような切なさに満ちている。




「祝われない側」への眼差し

世の中のクリスマスソングの多くは、幸せな瞬間だけを切り取る。恋人がいて、笑顔があって、未来は明るい――そんな世界だ。

しかし現実はどうだろう。誰かに去られた夜もある。一人でハンドルを握り、行き先も決められず走ったこともある。街のイルミネーションが、やけに眩しく、やけに残酷に見えた夜もある。

浜田省吾は、そういう側の人間を置き去りにしない。『ミッドナイト・フライト』は、祝われない側に立つ人間のための歌だった。





30年後に届いた『サンシャイン・クリスマス・ソング』

期待を裏切る「クリスマスソング」

2015年発表のアルバムに収録された『サンシャイン・クリスマス・ソング』。いわゆる”クリスマスソング”を期待して聴くと、少し肩透かしを食らうかもしれない。

この曲には、確かにクリスマスソングにありがちな煌びやかなベルは無い。
だが同時に、沈んだ空気や重たい影が支配しているわけでもない。

テンポは軽快で、メロディもどこか朗らかだ。
聴いていて、自然と体が前に進む。
決して暗くはない。むしろ、穏やかに「ハッピー」だ。

ただしそれは、浮かれた幸福ではない。
無理に高揚感を煽るでもなく、感情を大きく揺さぶることもしない。

この曲が鳴らしているのは、
**人生をひと通り歩いてきた人間が、ようやく辿り着く“落ち着いた明るさ”**だ。




「サンシャイン」という言葉の本当の重さ

「サンシャイン」という言葉は、本来とても軽い。太陽、明るさ、希望、前向き。どれも分かりやすく、使いやすい言葉だ。

だが、浜田省吾がこの曲で使った「サンシャイン」は違う。

それは、何も失っていない人の光ではない。若さの勢いで信じられる未来の光でもない。一度、人生の影をくぐり抜けた人間だけが知っている光。夜を知っているからこそ、眩しすぎない光だ。

若い頃、光は「向こう側」にあるものだと思っていた。手に入れるもの。掴みにいくもの。誰かが与えてくれるもの。

だが、年を重ねて分かる。本当のサンシャインは、失ったあとに残るものだということを。

夢が思った形で叶わなかったあと。誰かと別れたあと。取り戻せない時間を抱えたまま、それでも朝を迎えたあと。そのすべてを通過した人間の内側に、かすかな、しかし確かな光が残る。

この曲のサンシャインは、「元気になれ」という命令ではない。「前を向け」という叱咤でもない。「ここまで生きてきたこと自体が、もう光なんだ」と、静かに認める言葉だ。





二曲の対比が示す、浜田省吾の世界観

光と闇、二つのクリスマス

『ミッドナイト・フライト』 『サンシャイン・クリスマス・ソング』
深夜・闇 太陽の光・朝
逃避・喪失 肯定・受容
若さゆえの絶望 人生を経た静かな光
孤独に寄り添う歌 孤独を抱えたまま歩き出す歌

この二曲は、同じ「クリスマス」という季節を舞台にしながら、まったく異なる人生の局面を描いている。

『ミッドナイト・フライト』が孤独に寄り添い、共に泣いてくれる歌だとしたら、『サンシャイン・クリスマス・ソング』は、孤独を抱えたままでも、その足で再び街へ踏み出す勇気をくれる歌だ。




「時間」が音楽に与える意味

若い頃には分からなかった曲が、年を重ねてから、突然、自分の歌になる。音楽が人生に寄り添うとは、きっとこういうことなのだ。

2015年、この曲を聴いたとき、同じ「クリスマス」という言葉が、まったく違う意味を持ち始めた。それは、若さゆえの絶望でもなく、希望を信じ切れない諦めでもない。「それでも、ここまで生きてきた」という実感。傷つきながらも、投げ出さずに歩いてきた時間そのものが、この曲には流れている。





まとめ:遅れて届く光

あの1984年の夜、泣きながら車を走らせていた僕に、今の僕は微笑んで言える。

「見てごらん。街はあんなに輝いて、誰もが幸せそうに歩いている。でもね、その雑踏の中には、かつての君と同じように、痛みを抱えたまま笑っている『大人たち』がたくさんいるんだよ」

30年以上の旅を経て、浜田省吾は教えてくれた。孤独は消えるものではないけれど、いつかそれは、冬の朝の光のように、自分を温かく照らす人生の「サンシャイン」に変わる日が来るということを。

『サンシャイン・クリスマス・ソング』は、浮かれるための曲ではない。泣くための曲でもない。ただ、立ち止まって、自分の歩いてきた道を振り返るための曲だ。

クリスマスは、必ずしも幸せを証明する日じゃない。それでも、生きてきた時間をそっと肯定してくれる夜には、なり得る。

浜田省吾が歌う「サンシャイン」とは、人生を一度、疑い、傷つき、それでも歩いてきた者だけがようやく手にできる、遅れて届く光なのだ。


大丈夫だ。その悲しみの先には、こんなに晴れやかで、優しいメロディが待っているから。